何の力

むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。あなたが彼らにこれらすべての言葉を語っても、彼らはあなたに聞き従わず、呼びかけても答えないであろう。それゆえあなたは彼らに言うがよい。「これは、その神、主の声に聞き従わず、懲らしめを受け入れず、その口から真実が失われ、断たれている民だ。」
エレミア書7章23−28

エスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
ルカによる福音書11章14−23

自由を前にして、ときどき、恐ろしくなることがある。
誰もが毎日の小さなできごとを、一つ一つ決断して、
それを始め、あれを終わらせていくのだけれど、
あるときは千をも超える選択があるように見えて途方に暮れることもあれば、
また一つしかない閉塞感に諦めを覚えることもあるんだ。
でも、自由の享受は、途方に暮れるとも、諦めを覚えるのとも違う。
もちろんそれは嬉しいことに違いないんだけれど、
やっぱり、恐ろしくなる。
自由は、神の領域に属することだから。
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口を利けなくする悪霊、喋りつづけさせる悪霊、
どちらにしても、そこに、自由がない。
群衆や、まわりの者たちは、イエスが「何かの力」で追い出してるんだろうと思ってる。
追い出して、空になった自由さを目撃してるんだ。

わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、
神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

神の国の現存について、彼は「自分の力」で説明しない。
神の指は、そういう意味での「力」じゃない。
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いつもチェックしているブログ。meditations,eireneさん。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/
まさに現代の使徒、メディアのなかにこんなふうに存在できるのかぁと納得。
特に3月1日〜3日のさまざまな言及、目からウロコです。
世界をメディテーションするための生きた材料を提示してくれる。
より自由へと向かう旅。