和解

悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。
エゼキエル書18章21−28

言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
マタイによる福音書5章20−26

殺すな、って掟はみんな知ってるだろうけど、
腹を立てるな、って掟はそれほど知られてないかもしれない。
ま、この後者の掟に関しては、耳を傾けるか、聞く耳なしか、聞いたことがないか、
ということになるんだろうなと思う。
殺すなって掟も危うい時代に(なぜ人を殺しちゃいけないのかと疑問する)、
腹を立てるなって掟は、かなり厳しい局面に置かれてる。
・・・
つまり、意識が、脅かされてるから。
・・・
実は今日、ご幼少の頃から日本舞踊のお稽古で鍛えられた身体を、観た。
何かを追うような目、落ちた腰、首筋、据わった肝、腹、足指の先にこめられた神経、
身体のすみずみに意識が張り巡らされている。
こういう感じは、確かに懐かしいと思うんだけれど、
どこかしら、
観ているわたしの身体がモゾモゾしてきて、どうもストンと落ち着かない。
集合的意識の断絶は、というわけで、身体次元で明らかなのであります。
・・・
つまり、意識が、たとえ脅かされているとしても、
生まれつづける意識がまるで他者の何かしらであるように見えるとするなら、
そう、和解の余地アリなのである、と、クールなわたしが言っている。
(ちなみに、クールであることはわたしの昇華だと先日わかったところ・・・)。