求める者

王妃エステルは死の苦悩に襲われて、主に寄りすがった。そして、イスラエルの神である主に祈った。「主よ、わたしたちの王よ、/あなたは唯一なるお方、/あなたのほかに助け手を持たない/ただひとりでいるわたしを助けてください。危険が身近に迫っています。わたしは生まれた時から、/わが先祖の部族の中で聞かされてきました。主よ、あなたはイスラエルを万民の中から、/我らの先祖をすべての先祖の中から選んで/御自分の永久の遺産とし、/イスラエルに約束したことを実現されたと。主よ、思い起こしてください。この悩みの時、あなた御自身をお示しください。神々を支配し、すべての主権を握る王よ、/わたしに勇気をお与えください。このわたしに獅子の前で雄弁な言葉を語らせ/その心を変えて我らに戦いを挑む者を憎ませ、/その仲間と共に葬り去ってください。御手をもってわたしたちを救ってください。主よ、あなたのほかに頼るもののない/ただひとりでいるわたしを助けてください。あなたはすべてをご存じです。
エステル記(ギリシャ語)C12,14−16,23−25

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
マタイによる福音書7章7−12

集合的人格として、ある集団が一つの思考に収束する。
現代で言えば、全体主義として忌み嫌われるんじゃないだろか。
しかも、個人主義的なこの社会じゃとてもじゃないけど想像できない。
二人称複数で語りかけられる、このフレーズ、
あなたたちよ…
求めよ、与えられるだろうから、
探せ、見つかるだろうから、
門をたたけ、開くだろうから。
もしもこのメッセージがわたしを取り巻く集団に言われるとするなら、
さて、どういう気持ちになるだろか。
神が唯一である、という核心は、
わたしがわたしたちであることと深く関わっている。
・・・
あなたたちの天の父が、頼む者たちに、良いものを与える。
今日、わたしは、「あなたたち」をどう読むのか。