そばに

それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き,人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。
ヘブライ人への手紙7章25−8章6

エスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤエルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」
と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
マルコによる福音書3章7−12

今日は、Mちゃん、アメリカに帰ってしまった。
久しぶりの再会で、成長したみ姿を拝見。嬉しかったんだな、わたし。
二人で話し始めたらもう止まらない。まるでTGV。
そんな至福なひとときも終わった。
ハウルの動く城(しつこくハウル言及)で女性軍を強調した批評をするわたしに、男性軍もなかなかなものだよ、と、車のなかで、Mちゃん。
だって、ハウルが三人の女から好かれてるだけじゃなくて、マルクルカルシファーも、そして、かかしのカブも、犬だけどヒンも、ソフィが好きだったよって。
そっか、そっか・・・。愛されてるソフィ。
愛されてること、忘れちゃいかんよ。
ソフィのそばにいたいーってマルクル言ってたね、そういえば。