取りつかれた男

神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言います。
ヘブライ人への手紙2章5−12

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
マルコによる福音1章21−28

取りつかれた男。
取りつかれた女。
取りつかれたわたし(^^;)。
わたしは、何に取りつかれているんだろ。
わたしが今取りつかれているものは、やらなきゃならないもの。
明日の朝までにとりあえずこれを書いて、明日は明後日の試験の準備をして、明後日は明々後日提出するものを書いて、その後この週末は月曜日に提出するものを書く。そしてその後は、あと二つ・・・。
やらなきゃならないに取りつかれたわたしが叫んでいる。
やらなきゃならないんだから、ほっといて。
しかし人間、取りつかれないで生きていくことなんてできない。
なにかにいつも取りつかれながら、取りつかれていることに気づかぬまま、これがわたしだと思って生きているんではないのか。
(絶対)他者がわたしに介入してくる。
取りつかれたわたしを看る瞬間。