だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
ヨハネの手紙5章5−13

エスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
ルカによる福音書5章12−16

あなたがそれを望むなら、わたしを清くできる。
彼は手を差し出し、触れ、言う。
わたしはそれを望む、清くなるよう。

一方では、私の意識は、他人の意識を私の意識でなぞることによって、深い変貌を受ける。つまり、私は私自身を、その外的な現象においては他人にとっての表現であるような一個の汝として扱うわけである。 ・・・ 他方では、他人は第一に、そして原理的に、自己投入の本来的な開示であるにもかかわらず、私自身についての認識がつねに何らかの程度で、他者の解読の手引きとなる。汝とは、もう一人の我なのである。 ・・・ 
われわれが<対象―身体>から<主観―身体>へ移行しうるのは、物の秩序を超え出るような跳躍によってのみである。他方、<主観―身体>から<対象―身体>への移行は、格下げと消去によって行われるのであり、この格下げと消去こそが、事実認識としての経験科学の体質に表れているようなタイプの関心によって承認されていたものなのである*1

他者、意志、身体というテーマで思い出すのはP・リクール。
主観からけっして剥がれることのない身体において意志が開花する。
それがいいとか、わるいとか、そうじゃない身体が、いいとか、わるいとか、そういうことじゃなくて、どうêtre-au-mondeしてるか「観る」問題、だと思うけど。
まあね、手は、いろんなことを語ってくれる。
あなた勇気がないね、ってことを教えてくれる場合が多いのだけれどさ。
ときに手に寄り添って聞いてみるのもいいかも。で?どうなの?

*1:ポール・リクール『意志的なものと非意志的なものI決意すること』滝浦静雄他訳1993紀伊国屋書店pp.21-22;Paul Ricoeur,Philosophie de la volonté I Le volontaire et l'involontaire,1950,Aubier,pp.14-15