karpos2005-01-08

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。
ヨハネの手紙5章14−21

その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
ヨハネによる福音書3章22−30

ヨハネ・デーで、岩波・小林訳

27節から
ヨハネは答えて言った、「人間は天から自分に与えられているのでなければ、何一つとして受けることはできない。私が『自分はキリストではなく、あの人の前に遣わされたのだ』と言ったことは、あなたがた自身が私のために証ししてくれることである。花嫁を娶(めと)るの花婿である。花婿の友は立って彼の声を聞き、花婿の声のゆえに喜ぶ。だから、この私は喜びに満ち溢れている。彼は大きくなり、私は小さくならなければならない」。
ヨハネ3.27−30

洗礼者ヨハネは自分のことを「花婿の友(介添え人)*1」と呼ぶ。
これも洗礼者ヨハネ自身の自画像なんだよね。
その時代、ユダヤ世界は、「サドカイ派」による神聖政治に牛耳られていた。生活上では、「ファリサイ派」という宗教集団がこと細かく規則を振りかざしていた。また、ナショナリストな「ゼーロータイ」という熱血宗教集団がテロし、「エッセネ派」という神秘主義集団が「義」の修行に篭もってた。
そんななか、「洗礼者ヨハネの集団」が、洗礼派として、回心と罪のゆるしをすすめ、水で人々に洗礼を授けてたんだ。
宗教だらけの世界で、「水」は、人々に何を語ったんだろ。

その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に来た。そして彼らと共にそこに滞在し、洗礼を授けていた。
ヨハネもまたサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。
そこに水が多かったからである。
ヨハネ3.22、23

この水が頭から注がれ、この水にとっぷりと沈み、この水から生まれ出る。
花婿の友の頬は、溢れるほどゆたかな笑顔で満たされている。
これ、わかる。

*1:友と介添え人じゃ雰囲気違うね