向こう岸

karpos2005-01-05

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
ヨハネの手紙11−18

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
マルコによる福音書6章45−52

彼は、祈るためにたったひとりで山にゆく。
福音書にはイエスがひとり山に退く場面が何度も描かれる。これとか。

エスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。ヨハネ6.15

彼、独特な行動。しかしこの静けさは。
海を歩く。
神が海を支配し、歩く姿は詩編にある。

あなたの道は海の中にあり
あなたの通られる道は大水の中にある。
あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。詩編77.20

わたしは彼の静けさにおびえている。
あなたは何かわかっていることがある、わたしにはわからない、思考の拡がりはまるで通過儀礼のよう。一つ知れば、新しい世界からまた別の世界へと。とはいえ、それを知ったところで、さて、おまえ、どうするというの。向こう岸は、おまえにとってどういう世界なのか。そこに行ってわたしは、どうしようというの。
けれど、この静けさは違う。
知っていても知らなくても(それでも知るしかないのだが)、
わたしは静けさに出会う。
山に退き祈り、海を歩く、この静けさ。