心にある思い

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
ヨハネの手紙2章3−11

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
ルカによる福音書2章22−35

心は、何もしないでもあるよね。
わたし、カンディンスキーが好きなのですが、ミッシェル・アンリが「内部性」について「カンディンスキー論」*1として、いいこと書いてくれてますので引用。

〈内部〉は見えないものであり、ある世界の中である世界と同じやり方によって決して現われて来ないものである。「内部の世界」はない。〈内部〉とは、発端の〈外〉から内に向けられた返答ではない。〈内部〉の中には、いかなる隔たりの設定も、いかなる世界内実在もない。 ―― 外部のものは何もない。〈内部〉の中にはいかなる外在性もないからである。
 それでは、ある世界の中になく、ある世界のごときものでもないとすれば、どのようにして〈内部〉は現われ出るのであろうか。生と同じやり方によってである。生は、それ自体じかに感じられ知覚されるのであるから、自己の存在の各地点において自己と合致し、自己のうちにすっぽりと埋没し、その自己感覚の中で消耗しつくして、情念(パトス)として現実化される。〈内部〉が自己に対して現われ出る、生がそれ自体生きられる、印象がそれ自体じかに印象づけられる、感情がそれ自体働き出すための「やり方」―― 何よりもまず眼ざしであるが、これは別にして ―― とは、〈情動性(アフェクティヴィテ)〉である。

心にある思い。
引き寄せられる波が溢れることなくここにある。
affectivity
カンディンスキーの「黒」は、刺し貫かれる意味を教えてくれる気がする。)
(それは、ともかくとして。)
心は、生の帰趨を求めるでしょう。
なぜならそれは引き寄せられてるから。
マリアもイエスの母としてそこに立つんだよって、
シメオンに言われてしまったわけ。
心は、見えないけどあるよね。
ミッシェル・アンリによるとそれは、「ある世界のごときものでない」ということですが。

*1:『見えないものを見る―カンディンスキー論』ミシェル・アンリ著、青木研二訳、法政大学出版局、p9