自分たちの町

子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
ヨハネの手紙2章12−17

また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
ルカによる福音書2章36−40

映画『マリア、恵みに満たされたMaria, pleine de Grâce』 (コロンビア・アメリカ映画 Joshua Marston監督 2004年)を観た。

コロンビアの田舎に住む17歳のマリア、花工場(?)に務めてる。妊娠した彼女、相手の男の子とは愛しあってなかった。一人、首都ボゴダに行くマリア。ディスコで知り合った男フランクリンにいい仕事があるといって紹介されるが、それはニューヨークへの麻薬運び。旅の途中で知り合う女性たち。彼女の胎には生まれこようとしているいのちとドラッグが。
この写真、繭のように見えるけど、つまりはそれなわけです。
コロンビアというところがどういうところか聞くには聞くが、映像で見ただけでもほんとに凄まじい世界。わたしなんかあそこにほおりこまれたら腰ぬかすと思う。
ところで、
マリアの「おなか」のなかには、ドラッグと赤ちゃん。
ドラッグと赤ちゃんを積んで旅をするんです。
なにかしら象徴的。
なけなしのお金をはたいて産婦人科に行き、エコーで赤ちゃんを見るんですが、
そのときの彼女の美しい笑顔が、なるほどこういうことかと教えてくれます。
一人じゃないことを根源的に知った人のよろこび。
そうして自分から自由になっていく。