Ap22,1-7;Lc21,34-36

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
ヨハネの黙示録22章1−5

放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。
ルカによる福音書21章34−36

同じルカ福音書で「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と、人々がイエスに問うている箇所がある。
つまり、彼とその弟子たちは、カチカチ断食・宗教集団じゃなかったわけだ。
また他の箇所でも、罪びとと食事をしている場面とか、安息日に腹がすいた弟子が麦を摘むのをゆるす場面などもある。彼がいかに「食事する気楽さ」を大切にしたかがわかる。
だがそんなイエスも、深酒には要注意とコメントする。
深酒すると、その結果、心が鈍くなってしまうでしょ、そりゃ要注意だよ、と。
生活を整え、心を鋭敏にさせ、精神を研ぎ澄ましておく ―― というのは、ほとんどすべての宗教が教えていることだ。逆に言えば、このような日々のコントロールが生活のなかに充満しているということは、実はとても宗教的な生活と言えるのかもしれないね。
心が鈍くならぬようにね、目を覚まして祈るようにねと、彼は言う。