Ap14,14-19;Lc21,5-11

また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方が雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。すると、別の天使が神殿から出てきて、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では、刈り入れが行われた。
ヨハネの黙示録14章14−16

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩さずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」
ルカによる福音書21章5−11

毎日、黙示録が続く。今週の土曜日まではまだまだ黙示録を読まねばならない*1
今生きているこの世が、終わりの世なんだという思いを持つのは、良いとか悪いとかを超えて、自然なことなのかもしれない。目を覆いたくなるような破壊的できごとを前に、人間はこんなはずじゃなかっただろ、もうお終いだと叫ぶのはある意味、あたりまえだ。
黙示録の記者は、彼らが見ている現象を、見えない物語として語る。読み手はこの物語から、彼らの時代に起きた出来事を想像してみるわけだが、それは思うほど簡単じゃない。彼らは暗号のような言葉を用いて、わかる者にだけ伝達する。
ニュース報道での戦争映像と、映画で作成された戦争映像とでは、ほんとうかうそかの違いだけで、それを見る受け手は戦争映像を受け取っていることには変わりがない。我々は、終末の世界を語るこの黙示録から、いったい何を受け取るべきなのか。
エスが見ているものと、弟子が見ているもの、同じ見事な神殿を見ていても、それぞれ違うものを見ている。

*1:典礼暦:一年間の中心は復活祭、次に降誕祭、それぞれに準備の時間として四旬節待降節と四十日間置かれる。一年間を通しての典礼暦で、今週は最後の週。次の日曜日から降誕祭前の待降節がはじまる