2S5,1-3;Col1,12-20;Lc23,35-43

イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主のみ前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
サムエル記下5章3

み子は見えない神の姿でありすべてのものが造られる前に生まれた方です。
神は、み心のままに、満ち溢れるものを余すところなくみ子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただみ子によって、ご自分と和解させられました。
コロサイの信徒への手紙1章15、19、20

民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もしも神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も、揚げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ルカによる福音書23章35−43

民衆は立って見つめていた。
彼らは十字架をただ見つめることしかできなかった。あざける者たち、笑う者たち、侮辱する者たちのなかで、立ちすくみ、何も言わず、黙って十字架を見つめる者たち。
彼らは、十字架上のイエスを見つめた。
他人をどうすることもできないどころか、自分で自分をどうすることもできない、これ以上ない人間の弱さ、―それは死なのかもしれない― 彼らはそれを見つめていた。
見えない神の姿が、この十字架のイエスに見える。そこに平和があり、希望がある。愛とは、こんな弱さのなかにあっても、なぜだか他者を、安らかにさせるものなんだ。わたしは彼らとともに復活を信じる。この愛を知ったから。
どうしようもなさ、情けなさ、苦しさ、無念さ、どん底さのまっただなかで、神が「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われる。
わたしは死なない、わたしは生きる。