Ap11,4-12;Lc20,27-40

この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。
ヨハネの黙示録11章4、7−12

エスは言われた。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
ルカによる福音書20章34−38

天国とはどのようなところか。
昔は、こういう質問で良かった。しかし今ではもう「ところ」というのはタブーだ。誰もが口をそろえて、そんな場所はないヨと言う。銀河の彼方まで見渡せる時代なんだ、何億光年むこうの場所にも天国なんてありやしない。ボクのワタシの死んだおばあちゃん、衛星中継テレビ画面には映ってない。
昔は、天国、煉獄、地獄で良かった。あるいは、美そのものの世界。イデア、魂、神々の世界。あの世、彼岸、極楽、浄土、涅槃。とにかくスペースぬきに、超越世界を思い浮かべることなんて、人間にはできないはずだった。しかしスペース概念の危うい現代、どうやって天国を思い浮かべたら良いのか。天国はなくなったのか。

めとることもなく、嫁ぐこともない。
もはや死ぬことがなく、天使に等しい者、復活にあずかる者として神の子だ。

平和の使徒になりたいと望み、静かに、この世に抵抗しつつ生きている者たちがいる。この者たちは、この聖書の、この部分を、心に秘めて生きている。彼らは、どのようなことばで天国を語るのだろう。どのような生き方で天国を示すのだろう。片足をこの世、もう一方の足をあの世に置くと宣言する者たち。この世界であなたたちが抱きしめるものは、永遠のみであることを忘れぬように。