Ap4,1-11;Lc19,11-28

その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた。あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」わたしは、たちまち「霊」に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。
ヨハネの黙示録4章1−6a

エスは更に一つのたとえを話された。
「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った。
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『ご主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。」二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『ご主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立てて、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付でそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『ご主人様、あの人はすでに十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。』」
ルカによる福音書19章11b−13、15−26

1ムナ、だいたい100日分の賃金。
100日分の給料を前もって預けられるくらいの僕だから、ちゃんと信頼もされているし、期待も受けている。十人のうちの三人の例が語られているけど、あとの七人はどういう儲け方をしたのだろう。儲けるどころか、もらったお金ぜんぶ、すっからかんに使ってしまったとか、お金を持って逃げてしまったとか、でも、そういうことはここでは語られてないから、問題はそういうことじゃないんだろうな。
なんと言っても三人目の人、この人の「臆病さ」がなんとも気の毒である。
「恐ろしかったのです」。いやはやよくわかる。これわたしの日常。
びくびくして、できるだけ隠れて、いらぬことは喋らぬように。「布に包んでしまっておきました」なんて、昨日のいちじくの木に登ったザアカイとはまた逆で、これはこれで一生懸命なわけだな。しかし、こういう態度もまた、ご主人さまにはお気に召さないようである。このご主人さまは欲深いお方である。利息でもいいから儲けたかったのか。
我らが主と呼ぶ彼の富はなんだろうか。
それは間違いなく、彼の「死と復活」だろう。この世界のどんな富とも比べることができない。この富が我らに預けられているとするなら、与っているとするなら、創造性どころじゃない、存在そのものが問われることになる。
今日の個所の最後には次のような逸話で結ばれる。「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」。(ルカ19.28)