Phm7-20;Lc17,20-25

兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。
恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。
フィレモンへの手紙7−12、15、17、18

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ルカによる福音書17章20−21

わたしとあなたの間(あいだ)。わたしと世界の間。
たんぱく質とカルシウムで成分的にはとりあえず同等だし、構造的にも同等な言語を用いてコミュニケーションしているわけだし、「あ、空に飛行機が飛んでる」と指差せば、「そうだね」って共感もできる、わたしたち。
それなのに、わたしたちには明らかに間がある。間・・・。目には見えず、手にも掴めない。
わたしと聖書にも、間がある。
日本語で読んでるし、物語も登場人物もイメージできるし、この手のなかに「書」としてある。だけど、わたしと聖書の間には絶対的な断絶がある。歴史、時間という断絶をわたしには飛び越えることができない。奴隷関係から、愛する兄弟の関係への飛躍を、象徴的に理解できても、実際に追体験することは決してできない。
目に見えず、手にも掴めないが、たしかにある「間」。淵、断絶、空間。
ここに入って、ここから聴こえることを聴いて、味わえることを味わう。「神の国」がそこにあるというのなら、わたしはそこにとどまる。わたしなしに、わたしたちの間はない。