Tt3,1-7;Lc17,11-19

神は、わたしたちが行った義の業(わざ)によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
テトスへの手紙3章5

エスエルサレムへ上る途中、サマリアガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
それから、イエスはその人に言われた。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
ルカによる福音書17章11−19

憐れみはおなかからくる。
「神さま、憐れんでください」と祈るとき、神さまのおなかのなかに飛び込んでいくような気持ちで祈ったらいい。わたしはその胎(はら)のなかで生まれ変る。新しくされる。
さて、外国人とはわたし。わたしはこの国では外国人。自分を自分で外国人と名乗っている。外国人はこの国の決まり事とあんまり関係がないので、自分の喜びにありのままになれる。喜びたいときに喜ぶよ。嬉しかったら、素直にありがとーと言うよ。そして、意気投合したなーと思ったら、走りよって抱きしめる。
決まり事が禁止する諸事項にはけっこう無頓着。因習からの脱却。
遠慮なく喜んでますかね、世界よ。
憐れみの胎のなかで生まれ変わるような、宇宙よ。