2M7,1-14;2Th2,16-3,5;Lc20,27-38

また次のようなこともあった。七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」王は激怒した。そして大鍋や大釜を火にかけるように命じた。直ちに火がつけられた。
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こうして最初の者の命を奪うと、次に二番目の者を引き出し、これを辱めた。
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やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。死ぬ間際彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。」
マカバイ記7章1−4a、7、13−14b

わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
2テサロニケの信徒への手紙2章17

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄ってきて、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
ルカによる福音書20章27−38

男のからだも、女のからだも、三人称で語られるとモノになる。
なんて脆弱なんだろ。人間のからだ。
兄が妻をめとり、子がなくて死んだ、弟が兄嫁と結婚し、子がなくて死んだ、そして七人とも・・・。いったいこの三人称の語りが言いたいことは何か。この女の一生は何だったのか。七人の男たちは、どうか。
vulnerable
人間の弱さを表現するときだけ用いる形容詞。モノには使わない。
人間の弱さは、お皿が床に落ち、割れて粉々になるような弱さとは違う。この肌のほのあたたかい温度、小さいが規則的に打ってる心臓のリズム、そして、からだ中いっぱいに満たされている水。この世界で、たった一つの温度、たった一つの心臓、たった一つの器に満たされた水。そう、たった一つで温度を保っている、たった一つでリズムを打ってる、たった一つで水を満たしている。人間の弱さとは、こういう弱さなんだ。
二人称の語りをこの「たった一つ」が求める。「あなた」「おまえ」と。
男のからだも、女のからだも、二人称で語られると人間になる。
一人の女と、七人の男たちは、どんな二人称の語りをしたのだろう。殺された七人の兄弟と、その母親は、どんな眼差しで見つめあったのだろう。