Ph4,10-19;Lc16,9-15

物欲しさにこう言っているのではありません。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満足していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
フィリピの信徒への手紙4章11−12

「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
金に執着するファリサイ派の人々が一部始終を聞いてイエスをあざ笑った。
ルカによる福音書16章9−14

生きるためには、とりあえず安堵する。安堵するために、何かする。主人はたしかにそれをとがめたりはしない。そして彼は、むしろそうしなさいと言う。不正にまみれた富でも、とにかく友だちを作っておけば、とりあえず金がなくなったときでも生きていける。彼は金がなくなったときのことも心配する。

何に対して忠実であるか、が問われている。
とにかく生きよ、と。生きぬくことのみに忠実であれと。

しかし、それにしてもなぜ、この「話」がファリサイ派の人々を笑わせたのだろう。笑った人々は、どういう目で彼を見ていたのだろう、彼の語りを、どう聞いたのだろう。金がすべてと思っている人々にとっては、金がなくなった時のことなどべつに考える必要もないヨ、ということなのか。それどころか、彼らこそ、神に仕える身分をいちばん自負している人たちではないか。

主人に叱られるからでもなく、金に執着するからでもなく、どう忠実に生きようか。