出来事(リアリティ)

<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)の中で一つなるほどと思ったことがあったので記す。
現代の関心は「私の出来事」から「私という出来事」へと重心が移っている、とのこと。

「宗教」の救済・スピリチュアルの和解
 キリスト教や仏教などの歴史宗教や日本の新宗教は「救い」という観点から「救済宗教」とたばねられる。そこでは、そもそも人間は救いを必要とする苦境に生きている、という思想が前提にある。たとえば仏教は「生老病死」ということばで苦難をとらえる。
 全体として、歴史宗教は来世での救済に重きを置いている。来世で無限のやすらぎが得られるのであれば、現世での苦はなにほどのものか、というわけである。これに対して新宗教は現世での救済を重んじる傾向があり、「病気なおし」への関心も高い。研究者は新宗教が与える癒しについて、「私の出来事」との和解と考えている。
『人間が苦難の出来事から解放され、生きられるのは出来事と和解し、やすらぎを得られた時である。出来事の一般的説明ではなく、「私の出来事」の意味ある個別的説明がおこなわれるとき、人は癒される』。(新屋重彦、島薗進、田邊信太郎、弓山達也編著『癒しと和解』ハーベスト社)
(中略)
 わたしは、現代の関心は「私の出来事」からさらに「私という出来事」へと重心が移っているのではないかと考える。成熟社会では、どういうわけか存在してしまっている<私>こそが切実な「意味の欠如」であり、「いわれなき苦しみ」となるのだ。一時代前にサルトルレヴィナスが指摘したことは、いまこそ重みをもってわたしたちに迫っている。そんな現代だからこそ、見えないなにかとつながるスピリチュアルな感覚は、「私という出来事」についてなにかを示唆するかのように受けとめられる。理性によってではなく、むしろ感覚によってである。
 時代を大きくくくれば、歴史宗教(来世での救い)→新宗教(現世での救い・「私の出来事」)との和解)→スピリチュアル文化(「私という出来事」との和解)という流れではないだろうか。
<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)(p.78−80)

ちょうど「キリスト者という出来事」というテーマを考えていたので、「私という出来事」という言葉を見た時、正直ぎょっとした。上記引用の文脈では、「歴史宗教=来世での救い」ということになっているのだけど、そう捉えられてもおかしくない部分もあるからそれはともかくとして、実際に歴史宗教と言われる宗教に属す者(わたし)にとっても、「歴史宗教=来世での救い」という図式にはどうも違和感をおぼえるというのはどうしたものか、とも思う。つまり、歴史宗教であるキリスト教も現代の風潮であるスピリチュアル文化の中にずぼっとはまってしまっているということなのだろうか。いや、そういうことでもあるまい。わたし自身がこの「成熟社会」と言われる社会に埋没してるってことか。否めない。だってまさに、わたしが日々追求するテーマはまさしく来世の問題なのではなく、いま・ここの「キリスト者=わたし、という出来事」なのだから。
上記の図式で一つはっきりさせてくれたことがある。「私の出来事」=つまり、私の病、私の悩み、私の罪、私の・・・に対して「なんとかしたい」のではないってこと。そういう点では「新宗教」には惹かれてない。「私の出来事」は、それら「個々の出来事」がすべてが構成しているところの「私全体の出来事」の一部でしかない。
そういう点から振り返ってみると、現代の神学が格闘している問題は「私という出来事」を「キリスト者という出来事」とどう折り合いをつけていけるのかということなのかもしれない。言ってみれば「実存」という話になるのかな。ってことを考えればたいしたことはないか・・・

今日のピエール・ド・ロンサール
毎日きれいだきれいだと皆でほめたたえている。。。