聴くということ


木曜日に発表を控えて準備してるんだけどまったく困ったことにまとまらない。
はじめ、書いたことをコピペしたらいいんだーなんて甘いことを考えてたんだけど、そうもいかないらしい。なんだか知らないけど、議論するんだって?
ジュリの一人が親切にも、こういうことについて当日議論したいとメモをくれた。
そこに書かれていることを言うために、何かしら自分にとって大きな勇気が必要な気がしてならない。議論に脅えてるというだけではなく、この質問を答えるということ自体がすでに新しいステージに入るような気がしてならないから、どきどきしてるのだ。
メモでは論文中の私の幾つかのフレーズを引用しながら、最後にこう問われてる。言語の次元だけでなく存在論的次元において、キリスト者に不可分な様相としての宣言を、あなたは得た証言の中から、どのように聴けたのか?どういう特徴がそれによって説明されるのか?
メモを渡されるとき、これは論文の続きになるからと一言付け加えられた。
まったくおっしゃるとおりだと思うんだけど、そんな先のことなんてまだ考えていないもんだから、なんとなく、自分のうちにある、なんとなくこういうことなんだろうな、みたいなことは、まだ言えないんですよぉ、とほほ、みたいな感じなわけでということで、けっこう困難な局面に立たされてしまっている。
しかし、結局のところ、「聴く」ということなんだよね。
何が「聴けたか」という?
テクスト世界に立ってるのはまさしく私の歴史に刻まれたわたし自身。
あなたのわたしが、まるでわたしのようにある、ってことになる。
勇気を願い求めることなく、
力をふるいしぼることもなく、
ありのまま聴いたことを、わたしが語れるように。
終わった後のフェットの準備は万端なんだけど(笑)。