vide et absent


空(vide)と不在(absence)について。

西田の純粋経験が言っているような「空」は、空が空であるために身体(修行)を要するという。空をある種の「場」として措定する考え方だけど、聖土曜日の「空の墓」は、こういった身体の哲学が言う「空」とか「無」とはまったく違う。身体そのものがそこから「取り去られる」のだ。すでに修行するための身体はなく、そこにあるのはただ、見えない神の存在(présence)だけ。イエスの身体は、不在となる。そこには居ない。でも、ガリラヤに居る。そこで待っている。
墓は空、身体は不在、そこに居合わせた人間の、驚きの。