ついて行くこと


「エマウスの弟子」。
エマウスの道、
エスと一緒に歩いてるのに気づかない弟子。
とにかく家にお留まりくださいと招く。
遠慮がちに、彼は家に入る。
この小さな光で、
思い出すこと。

今、
じゃない。
でもたぶん、
あとで。

シモン・ペトロがイエスに言った。
 >主よ、どこへ行かれるのですか。
エスが答えられた。
 >わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、
 >後でついて来ることになる。
ペトロは言った。
 >主よ、
 >なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。
ヨハネ13、36−37

あなたはどこに行くのですか?
たぶん、わたしたちは、「どこ」という問題について2000年間考え抜いてきたと思う。考え抜いて、その結果、さまざまなアイデアを生み出してきたんだけど、残念ながら、そこにはかなり無理があった。ペトロの宣言のあと、イエスはすぐに言っている。「鶏が二度鳴く前、あなたはわたしを否む」と。「どこ」の問題は明らかに人間存在と結びついているのであり、人間存在の深淵は「どこ」という問いでは片付けられない、というわけだ。
祈りは、「どこ」の問いではあるけれど、同時に「どこ」の問いを超えている。もしもひれ伏さざるを得ない境地に達するならば、ひれ伏さねばならぬだろう。素直に、単純に。でも、そうでなければ、生きたいように・・・
光は自由なもので、
そういうふうに、
生む。