演奏したということ


なんだか熱冷めやらず、心地よい疲れ。
しかし、ブランク15年、よくも人前で演奏するわって感じです。
しかもけっこうな大曲。
それこそこれ、音大の卒演とかでするんですって!?フォーレのファンタジー
レッスンしてくれた友人が、どうしてこんなの選んだの?と言ってました。
もうちょっと誰でも知ってる曲とか、簡単だけど楽しめるものっていっぱいあるのに。
いや、そこが、大胆さと信頼です。
何せ我らの記念の日、世界から友人たちが集まってお会議してる合間の余興ですんでね。
ちょっと勇気を出して思い切ったエネルギーの投入をしているというところをね、
マニフェストしようとしてみたという。
終わって、相棒といろいろ話しています。
音楽のなかに存在するということがどういうことかを。
やっぱり演奏は人前でしてはじめて演奏になるということがわかったわけです、二人とも。
演奏って、演奏しながら気が散ることだってあって、
ふだん練習してる時って、音を奏でていながら、別のこと考えていたりできる。
でも、それじゃ、音楽のなかに居るってことじゃない。
音楽のそとに居る。
フルートって、息の楽器で、けっこうたいへんなんですね。
シューベルトのアルペッジオなんか20分かかる。
結局、小曲(歌の人もいた)も含めたら、全部で1時間の演目になったんだけど、
その間、ずっと集中し続けるのって相当疲れる。我らアマチュアだし。
だいたい練習の時、この二曲を続けて演奏したことがない!
彼女も息があがってる、私も指が緊張してる、テンポも速くなってる。
でも、わかったことは、彼女と最後までやり遂げるという確信。
とにかく演奏しきる。
覚悟が決まると、二人で生み出してる音楽が私にも聴こえてくる。
音楽のなかで彼女と一緒に居たし、
彼女が最後まで演奏し切りたいという想いや、
聴いてくれている人たちが最後まで聴き切りたいという想いが伝わってきて。
なんと言いますか、あたりまえだけど、
音楽は、はじめがあっておわりありなんだなと。


あんたがはじめる人生じゃけん、あんたが最後までやり遂げんにゃいけん。
まぁここでまた、母のこのことばを思い出すのであります。
広島の家を出るときに私の母に言われたことばで、涙の別れ。
考えてみれば、一人で決めて、一人で家を出たあの日に、
この曲(生活)がはじまってるという。
だからあの時はじまったことを、今もまさに演奏し(生き)続けているんだなと思う。
母が言うように、私の人生を最後までやり遂げるということが、
いったいどういうことなのか、
まだわからないまま、
それでも途中で演奏をやめたりしないことだけはわかる。


それにしても、我らがほんとにアマチュアなのは、
音楽しながら音楽している自分たちの「信」について満足そうに語ってるところ。
音楽のプロなら、もっと演奏の内容について語るだろうけどね。
フランスや日本の音楽教育についてとか、神学と音楽の関係とか、聖書の読みとか・・・
そして懲りもせず、半年後、またもや世界から来るおばあちゃん友人をターゲットにと・・・