昨日のディスクール


今日ずっと聖書引用の問題点を考えていて、昨日の日記の展開のまずさに気づき、こういうことを繰り返してるからいかんのだと深く反省した。まぁ、こういう論述傾向は説教なんかにもよくあることだし、キリスト教ベースの国のどっかの大臣とか、かつての専制君主だって堂々としているということでもある。昨日の日記には聖書の引用はないけど、ラッツィ文書を引用してみてるところとか、まるでいかん。>自分


展開のまずさを列挙する。

起:教会共同体内では自明、了解な出来事を一つ取り上げる
(死者の日→煉獄なし→死者とは?)
承:個人的、経験的な語り
(夕陽→そこに死者がいるはず)
展:教皇の言葉を引用、これも教会共同体内では自明+制度の援用
(永遠をまとう死すべき者)
結:展開したテーマを教会文脈とはまったく関係ないところに探す
(不滅→中島みゆき永久欠番
昨日11月3日の文構造


この一連の流れにはトリックがある。
まず自明なテーマに触れ、個人的な思いを述べながら、その思いを支持するために、
誰もが知っていそうな有名人を持ってくる。
この時、持ってくる有名人は実際に皆が知らなくても、
名前が通って追うな有名人(たとえば聖人だったり、教会博士だったり)であれば良い。
個人の思い(結局これを一番主張したいわけだな)は、
教会権威づけされた有名人の文書によって念押しされ、さらには、
教会内に留まらず一般社会の中にもこれに似た文書がありますヨというような言い方に、
引き継がれ、最終的にまったく別のメッセージ(ここでは「不滅」)に落ちをつける。
教会共同体内での伝統的意味としての「死者」は、最終的に、
永久欠番」というところに割引き(還元)され、結局、
「死者の日の死者」も「永久欠番」もその両方の価値を失ってしまう、虻蜂取らず。
こうして「伝えられたもの」「受け継がれていくもの」「伝統」は明らかに滅していくのだ。
こういう態度から脱却するためにここに居て辛抱しているんだけど。
でもまた癖でやってしまうかも・・・