昇天

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書28章16−20

主が天に昇るのを見る者たち。
これから始まろうとする冒険が神の山において示されるんだ。
あなたがいつもわたしたちと共にいてくれるという約束に満たされている。
何もできなくてもいいんだ。
わたしが無償で受けたすべての恵みがいかに素晴らしかったかを、
そばにいる人に、ただ、示したらいいんだよ。
何も言わなくても、笑顔だけで。
そこが、神の山。
・・・
昔、書いたもの。もしカメさんに読んでもらいたくて。。。

わたしの中心に立ちすくみ、わたしを見る何者か
どの体験もすべて相対化されていく。崖までたどり着いて、崖のむこうの「何者か」との交流をつかさどった「素晴らしきものたち」は、どんどんその崖になだれ落ちていく。「神体験」「超越体験」を入れた「器」が、殻となって落ちていく。しかし、このわたしにとって、崖の向こうになだれ落ちることなく、崖のギリギリに立ちすくんで、これまで経験してきた「神体験」「超越体験」を支えているさらなる「何者か」がいる。これが、イエス・キリストだった。

「神体験」「超越体験」ということで考えた場合、そのギリギリに立ちすくんでいる「何者か」が、オウム真理教(現在はアレフでしたね)の○○さんだったりする。わたしの現時点での結論は、「結果をみるしか判断できない」。木の良し悪しは、その実を見て知る、という。「神ってなんだろ」の問いは、こうして、時間論との論議に発展していくことになると思う。

「宗教的次元」と「現代文明批判的次元」は、わたしにとって、前者を「崖のむこうの天空」と、後者を「崖の底の闇」という二つの極に象徴することができ、また「宗教的次元」を「神体験」、「現代文明批判的次元」を「神体験を入れた器」と言い換えることができる。この両者への眼差しを光らせながら、崖のギリギリのところで立ちすくんでいるのがイエス・キリストだと確信するうえで、「イエス・キリストは神である」と言っているわけだ。

さて、「何者かの代入について」。

まず、「一回きりの生を私が悔いなく生ききる」、という前提において「何者かの代入」は何でもいいわけではなく(相対化されない)、偶然ではない、ということは言える。「この私の生が一回きりだ」という前提は、「一回きりじゃないかもしれない」という考え方とは飛躍的に違う。この言い方は、歴史性と存在論をまず規定する。そしてこの基礎から出発すると、一回きりの生を私が悔いなく生ききる時の、私の中心軸、その中心軸が「何者かの代入」と言えるかもしれない、とまず考える。

で、ここからは、わたしにとっての「一回きりの生を私が悔いなく生きる時」に、その「歴史性と存在論」をかえりみたときの「何でもいいわけではない、何者か」論になる。。。とりあえず、その「何者か」が「物」ではない、ということについて。

「立ちすくむ何者か」(以下、「何者か」)と「多数の私」(以下、「私々」)。

白い紙に、ペンで点線を使って「人のかたち」を描く。点線なので薄っすらとしか「人のかたち」が見えない。その点線の外側を少しずつ斜線で塗っていく。点線の内側には色が入らないように注意しながら外側を塗る。点線の上を線でなぞったり、その外側をしっかり塗りつぶしながら「人のかたち」の外を塗っていく。すると、点線の内側の今まではっきり見えなかった「人のかたち」は、外の影によってだんだんと浮き出てくる。

わたしにとって言ってみれば、この点線の内側の「人のかたち」が「何者か」、そして「外の影」が「私々」、そして、この両者によって明らかにされた「人のかたち」が「わたし」となる。つまり、この「わたし」は、「何者か」と「私々」の絶えざる相互関係によって、時間の連続性と非連続性なかで、その様態が明らかにされていく。点線が「人のかたち」をしているか、していないかは、現時点の「わたし」にとっては重要。影が強く出れば出るほど、内側の「人のかたち」が浮き出てくる。逆に「人のかたち」が光って浮き出れば出るほど、影が強くでる。「立ちすくむ何者か」の立ちすくみかたは、影である「私々」によって明らかにされると同時に、さらに「立ちすくんでいる者」の眼差しが明らかになれば、影である「私々」も見られることになる。わたしが考えている「何者か」と「私々」の関係は人間性の交換に近いと思う。ここを通って神体験、超越体験ということになる。

代入すべき「何者か」は「私々」との内的、霊的、具体的対話の相手なので、やはり「何者か」でなければ、「私々」は人間性を発揮できないのではないか。

「何者か」に「何を代入するか」は、ほんとばかにできない問題だと思う。ちょっと考えてみても確かにいろいろある。人、もの(物体、偶像)、生き物、自然、抽象的なもの、具象的なもの、それこそ、イメージとか、宇宙とか、いのちとか。。。しかし、ここに「何を代入するか」は、「私々」の自由意志であり、「私々」の歴史性に多く関わり、だからこそ、限界があると同時に、開かれていると思う。あと、「何者か」は、ただ「何者か」なのであって、「何かはわからない」というのもあるかも、と思う。それにしても大事だと思うことは「物」ではなく「何者か」であること。

そして、時間の連続性において明らかに「何者か」の様相が変化する。どう説明したらいいのかまだわからないが、「時間論」は絶対に問題になると思う。

こうしてみると、「私々」の外に位置する「他者」(人、自然、もの・・・)との関係は、たぶん、「私々」と「他者」との連帯、限界を備えた被造物としてみるうえで、「何者か」とは区別していることに気づく。「何者か」との対話において「生」にある「わたし」は、「何者か」の視線をみずからの身体を貫かせるべく生きたいと望む、ということになる。。。
by けい