かなえる

エスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
ヨハネによる福音書14章6−14

かなえる。
ここでの動詞はποιεω
「造る(創造する)」「建てる」「する」「行う」「遂行する」の意味あり。
Ποιησωは、未完了形ということで、「将来するだろう」つまり「かなえる」。
小林訳では・・・

(将来)あなたがたが私の名において私に何か願うことがあれば、この私が行う。
14節

とある。
私が行う。
なんて自己顕示欲の強いことばだろう。
私がする。
だから当然わたしは、彼が「する」ことに目が離せない。
何をするんだろうか。
何を考えているんだろうか。
見えないから見えないと言う。わからないからわからないと言う。
エスとの対話はそこから始まる。
そんなに言うんなら、わたしに見せてくれ。
見てるじゃないか?
聖霊のはたらきは、識るためにある。