父よ

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
イザヤ書55章10−11

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイによる福音書6章7−15

主の祈り、マタイの福音書のここに出てくる。
Notre Père qui est aux cieux...
天にむかって、「お父ちゃん」と呼び叫ぶのだ。
おやじー、でも良し。
パパー、パピー、でも良し。
ちなみにイエスは「アッバ」と呼んでいたらしい。
キリスト教のことを、高尚で、気高く、理知的で、頭を使わねばわからない宗教と、
もしかして思っている人々がいるかもしれないし、わたしも実に思ってるかもしれない。
けど、それは大きな誤解である。
なにせ、天に向かって、「お父ちゃん」って呼べば良い、っていうセンスだから。
けれども問題は、そう簡単なものではない。
家父長制と、父の権力と、政治とが、
びったりとくっついてしまった歴史を通過してしまってるから。
家族とか、父とか、時代によって、生育によって、語るメッセージは違うんだよね。
・・・
とはいえ、神と彼の関係は、お父ちゃんと子であることですべてなのだ。
それ以上のことも、それ以下のことも付け加えられない。