土の器

こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
2コリントの信徒への手紙4章1−2、5−7

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。の家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
ルカによる福音書10章1−9

そういえば「土の器」の朗読から、10年過ぎた。
religieuseと呼ばれる生活、不思議。
生まれたときから、こういう生活しているように感じるからね、面白い。
思えばまだ10年か、ってことなんだよね。
あのとき確か、師匠は、砂漠の花の話をしてくれた、そして、
土の器の自分を土だからと、それほどまでに嘆く必要もなしと言ってくれた。
・・・
こうしてローマで、名も知らぬ小さなローマの郊外で、
いつ来るかわからないバスを一人で待ってると、
誰かとともにいる、けれども、最後は独りっていうこの生を、
存分に味あわせてもらえる。
昨日、メキシコ人に手相を見てもらって言われたばかり。
あたってるじゃん。
ひとり、だけど、ひとりじゃない。