求める者に

だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
ヘブライ人への手紙13章15−17,20−21

求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
マルコによる福音書6章30−34

今、ドルトーを読んでる。

人間は、「身体そのもの」の刺激につながる喜びや苦しみの感覚よりも、「身体(の無意識的)イメージ」に結合する欲望という動揺の方を、より強く、ナルシスティックに生きている。しかし、身体イメージは、無意識の領域に属するから、人間のこういった(身体イメージに結合した欲望)構造はあまり注目されない。「欲望」は、けっして満足することなく、それでも満足することを求める続けるが、「欲求」は、とりあえず身体が生き続けていけるために、その身体において、なんとか満足するだろう。身体における痛みと喜びの緊張を、二つのプロセス−−つまり、これらの自覚を人間化するためにやって来る他者の「ことば」というプロセスと、「身体そのもの」と「身体イメージ」が(欲望、欲求において)関係しあっている、というもう一つのプロセス−−によって考えることができる。この「ことば」によってこそ、過ぎゆく欲望は、身体イメージのなかにきちんとおさまることができる。もしも「ことば」がなければ、身体イメージは主体の象徴体系を構造化することなく、関係理想的な虚弱さをつくることになってしまう。
Francoise Dolto,,1984,seuil,p41

聖書ディスクール、心理ディスクール
求める者よ、欲望する者。