食事する暇

すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
ヘブライ人への手紙9章2−3、11−14

エスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
マルコによる福音書3章20−21

彼は家に帰るけど、彼は一人じゃない。
彼の周りにはたくさんの同志がいて、彼と一緒に働いている。
彼らは食事する暇もないくらい、大繁盛してる。
大繁盛。
こういう言い方は間違っているか?
がらーんとしたお城みたいな大聖堂にぽつんと座っていると、孤独だよ。
大繁盛してないんだよね。
いいとか、わるいとかじゃなくて、ほんとはどうなの?って聞きたくなる。
彼の同志と、彼の身内とは、彼への認識が違うみたい。
あの男は気が変になっている・・・
わたしは同志なのか、それとも身内なのか、この噂にどうリアクションするか。
答は決まってる。今までもそうだった、これからもそうだよ。