ひと言でいいから

終わりの日に
主の神殿の山には、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
み言葉はエルサレムから出る。
イザヤ書2章1−3

さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
エスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
マタイによる福音書8章5−13

「キリストのからだ」をいただく直前に告白することば。

主よ、あなたは神の子イエス・キリスト、永遠のいのちの糧、
あなたを置いて誰のところに行きましょう。

日本では、エウカリスチの祭儀のなかで、上のような告白をする。わたしがいるこの国では、この部分に、今日の福音の箇所が適用される。

主よ、わたしはあなたを迎え入れるのにふさわしくありません。
でもひとことおっしゃってください、それでわたしは癒されます。

このように告白する。どちらも真摯な告白だなって思う。とてもパーソナル。
神との出会いは、ほんとうに個人的できごとのなかに起こりうるから。
さて、「ひと言」でいいからの「ひと言」って、この百人隊長さん、なんて言ってもらいたかったんだろうね。やっぱり「だいじょうぶだよ」かなあ。その「ひと言」について、ここではなにも触れられてない。
「ひと言」ってむずかしい。
でも、待ち望む者にとってはやっぱり「ひと言」なんだ。
そして、「ひと言」でじゅうぶん足ることなんだ。