Ap1,1-5a;2,1-5a;Lc18,35-43

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。
ヨハネの黙示録2章3−5a

エスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を讃美した。
ルカによる福音書18章35−43

我こそが道の真ん中を歩いてると思うときもあれば、道に乗れてない、道から外れていると思うときもある。他人から見れば、立派に大通りを堂々と歩いているように見えても、本人はそうでもなく、なにかしら疎外されているように感じているかもしれない。あるいはどのような社会逸脱の状態に置かれていても、「これぞ、わが道」と意識する者もいる。
しかし、「見えない」というこのどうしようもない主観的感覚は、道のどこに位置しようと、どんなふうに道を行こうと、あまり関係がないのかもしれない。
まさに見えないわたしがいて、見えるようになりたいわたしが、ここにいるのだ。
見えないわたしのそばを通り過ぎる風。誰かが歩いたとき、ふっと起こる。
わたしは、彼に聞く。