自由と内省

ラーナーより、【内省】が出てきたのでメモ

 人間は、自分についての内省を始めるとき、すでに自由を遂行した自分を発見する。自分が最も内省した形でこれから下すべき決定について考えるときも、自分がすでに今まで自由を遂行して来たことには変わりがない。このようにすでに下された自由の決定は、客体化され、内省されたときも、原初的な自由と、自由が遂行されるために必要な素材とが総合されたものであって、この総合は内省によって究め尽くすことができない。未来の決定も、これがどんなに内省されようと、やはりこれに先立つ決定から規定を受けており、これは後からの内省にとっては不透明である。それゆえ、実際にある自由の状態というものは、内省や良心の究明によってどんなに絶対的確実性をもって知っていてるつもりでも、やはり究めえぬものなのである。
(中略)
 自由な主体は、自分自身によって恒常的におびやかされている。このことは、決して人間の一生の特定の時期にある特質で、地上に生を受けている間に超克できるという類のものではない。これは真に恒常的で、この唯一回の時間的歴史の中では決して乗り越えることのできない実存規定なのである。一個の主体的自由が、一つの全体的でありながら、しかも歴史的な自己遂行をなすとき、そこにはいつ、どこにおいても、この実存規定が伴うのである。
キリスト教とは何か、pp.138−139

ここで彼が言いたいことは(中略)の中にあるんだけど、

1)自由の状態というものは、内省しても絶対的確実性で究められない
2)たまたま自分の行為に罪過を確かめたとしても、神に対して否定をなすのか、肯定なのか、確実には知らない
3)しかし、最終・決定的に神に逆らった罪びとでありうるということは、究極的な確実性をもって知っている
∴【罪を犯す可能性は一つの実存規定であって、いやおうなく人間の地上での生の全体を拘束しているものである】

上の引用を読むかぎりで、このような結論に導かれるとは。
さっぱりわからんだろう。
神学ってこんなふうにして構築されるものなのね。
気をつけよう。