内省

この花、うちでも咲きました。

週末、東京からもらって帰ったマルセイユの花らしき赤い花。
まだ植え替えてないけど咲いたよ。
うちの花辞典にあり「ナルタシア」というハーブらしい。
花も葉も食用。
夏には増やして食してみたい・・・
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一昨日、クローズアップ現代で河瀬監督のインタビューを見た。
最後の方で「ほんとうに愛することとかわからなくなってきている、たいへんなことになってる時代」と言われた。
−わからなくなってきている−というのは印象的だった。−たいへんなことになってる−というのもそう。つかみどころのない焦燥感、言葉にすると陳腐だが、実際に共感するところはそんな軽々しくは言えないような情況だ。聴こえはしない、肌に近い震動という感じ。
それは「社会が・・・」といって突き放せるようなものではなくて、皮膚1ミリのところの感覚だ。
前に「内省」について書いた。
わからなくなってきている、たいへんなことになっている、というのと、内省ができにくくなっている、というのは、何か関係がありそうな気がしている。私が問題としているのは「人が内省することをゆるさない社会」への危機感だ。前にも書いたが、内省をするためには「安心して内省しても良い」という支えがいる。その支えなしに自分を自分で見つめたり、ふり返ったりすることはできない。内省って自分ひとりでしているようだけど実は共同作業のようなものだ。
社会がもっとよりよい社会にという標語のもとでよりよい社会になってきても、自分の人生をどうするか、というテーマについては何の解答もでない。社会がこれはどうですか?あれはどうですか?とプロポーズすればするほど、深く思いをめぐらす場所と時間は狭められるのだ。愛することがわからない、たいへんになっているその社会が、もう自分の皮膚1ミリのところまで押し寄せてきている。突き放せない。突き放して議論すればもう言葉が浮いてしまうのは目に見えている。