New age

授業でI beliveを聞いた。
学生さんの一人が、
まさにこの感覚、自分の道、何を選べばいいのかわからない、
自分で決められない感覚。
占い小屋には自分で選べない人々が集まってくる。
何かが知りたい、何か言ってほしい・・・ この気持ちわかりますよ、とのこと。
現代の宗教を見ようとするとき、
スピリチュアリティニューエイジは絶対に避けては通れないところ。
しかし私自身も渡仏以来、
自分の中にあるエゾテリスムを見つめてというもの、
どうもはっきりした答えに行き着いていない。
◆◆
ニューエイジが提供するものの中に共通している「自分教」という要素。
本来の自分、自分の中にあるほんとうの自分、新しい自分・・・
とりあえずこういうメッセージがやはりポイントだとは思ってる。

ニューエイジについてのキリスト教的考察」が出てる。

カトリック中央協議会

「内なる神」と「神化」について

ここのニューエイジキリスト教の違いを際立たせる根本的な点があります。多くのニューエイジ文献は、神が「外」に存在しない、あるいは、神が他の存在と真の意味で区別されたしかたでは存在しないという思想を述べています。(中略)ニューエイジの考え方によれば、わたしたちの問題は、自分自身の神性を認めることができないことです。指導を受け、隠された(神的)潜在能力を解放するためのさまざまな技術を用いることによって、この問題を克服することができます。わたしたちは神々であり、非本来的な層をはがすことによって、わたしたちの内面にある無限の力を見出します。潜在能力は、認識すればするほど、いっそう実現されます。その意味で、ニューエイジにも独自の「神化」があります。それは神的になること、もっと正確に言えば、わたしたちが神的なものであることを認識し、受け入れることです。ある人によれば、わたしたちが生きているのは「わたしたちの神理解が内面化されなければならない時代です。外にいる全能の神は、あらゆる存在の中にいる、活発で創造的な力、すなわち霊としての神へと内面化されなければならないのです」。
『異端反駁』第五巻序言の中で、聖イレネオは、こう述べています。「イエス・キリストは、そのあふれる愛のゆえに、わたしたちをご自身と同じ者にするために、わたしたちと同じ者になりました」。ここでいわれる、キリスト教的な意味での神化とは、自分の努力だけで行えるものではありません。むしろそれは、わたしたちの中で、またわたしたちを通して働く神の恵みの助けによってもたらされます。神化は必ず、まず自分の不完全さ、さらに罪深さを自覚することを必要とします。それは自己を高めることとは正反対です。(中略)キリストにおけるいのちは、意識の領域に限定されるような、個人的なものでも、私的なものでもありません。それは単なる自覚の段階でもありません。このいのちは、教会の秘跡的生活にあずかることによって、わたしたちが心もからだも造り変えられることにほかならないのです。(p77−79)

この文章の前半は、ニューエイジについて言及されている。思わず「キリスト教って、そうそう、そういうことでしょ」と傾いてしまう。しかしこの項が言いたいことはそうじゃない。前半のニューエイジはこういうことなんだが、キリスト教はそうではなくて、こうなんだよ(後半)ということなんだ。
「内なる神」という言葉は当然のようにキリスト者だって使っているし、とくに日本人キリスト者にとっては「神が外にいる」と認識するのは非常に難しい(のではないか)。たとえ「外にいる」としても、いわゆる西洋風な「神の姿」を想像することは難しいし、じゃあ何と聞かれると、宇宙的な、わたしの内にもいる・・・とか答えてしまうのではないか。「外にいる」というようりも「内なる」という方向性の方が内省しやすかったり、祈りやすかったりしないか。
・・・ということを考えたとしても、この項の中でこれは決定的だという点は、「わたしたちの中で、わたしたちを通して働く神の恵みの助け」のところである。たとえニューエイジが言うようなわたしが方向している神が「内なる神」という位置だとしても、それは「わたしたち」とは区別され、「恩恵」は「不可知」、「神の意志」によるものとなる。このような「生」が成立するのは「秘跡」においてと結論される。秘跡的生活が、ニューエイジの生活と「どう違うのか」、ここをきちんと説明できねばならない。