聖堂

karpos2006-02-18



右は1878(明治11)年当時の東京のカトリック築地教会http://tsukijicatholic.jp/tsukijiseidou.htm
煉瓦造りと説明されている。この絵がほんとうならゴシック建築の煉瓦ミニチュアってことになる。
19世紀のフランス人宣教師たちの意気込みを感じる。
日本で教会を建築するにあたりやっぱり参考にしたのは彼らにとっての自国の建築だったんだね。
座っている信者たちを見てみる。椅子に座るというのは習慣ではなかったのだろうか、座敷のように敷かれた畳に正座し、座って、祈っている。
ゴシック様式の天井に、畳の床。
なんか象徴的だな。
最初の聖堂は関東大震災で焼かれ、次に、現存するパンテオン型の聖堂が建つ。これが1927年竣工(レイ大司教の希望でこの形)。

どうなんだろマドレーヌ教会(1842年)のこのパンテオンとやっぱり似てると言ってもおかしくないんじゃないかな。http://www.eglise-lamadeleine.com/

うむ。

築地教会のサイトによれば、パンテオン式の教会も最初は畳敷きだったとある。これはもちろん、日本の文化から来るものと簡単に言えるけど、宗教的次元からして特筆すべきことだと思う。人が座って(立っててもいいんだけど)祈る、その足の置かれる「場」の問題。
フランス人宣教師は一生懸命考えて、教会を建てるんだったらやっぱり信仰の本山である地元の建築を持ってくるべきでしょうと(たぶん今の宣教師なら考えないと思うけど)、当時の神学的思想によって、当然そう思うのは自然なことだ。でも、家(外側)はいろいろ頭で考えて、設計して建てることができても、座り心地(内側)の次元までは及ばない。
彼らにとっては、椅子の方がずっと座り心地が良かったに違いないのに。
フランス人と暮らして一番「あぁ違うなあ」と思うことは椅子への愛着である。彼らは椅子が大好きだ。そして古い人であれば、椅子にものすごくこだわる。椅子はまさにわたしが座るところ。わたしが居られるところ、いちばん落ち着くところなのだ。
つまり、このことで言いたいことは迷わず「居場所」の話である。
祈りが置かれるその足元の話である。
祈りが置かれるところとは、迷わずわたしが置かれるところと言いたい。
置かれるものが触れるその「地」「大地」の話とでも言おうか。
こんなふうに考えてみると、宣教師たちが一生懸命建てた西洋風な教会建築で、なんと自国の文化の接木なことかと思えないこともないが、逆に、その内部の床を畳にしたというその在りように、彼らと人々との大地の次元での出会いが染み込んでるようにも思える。これはとても不思議な触感だ。誰が、それが、の話じゃない。人と人が出会って、一緒に祈るという次元の話だから。
このあたりもっと探ってみたい。
それにしてもマドレーヌ教会は政治的、歴史的にもかなり面白い。立体的に見ていきたい。