祈る木 ⑧

所作の連鎖


もしも他で主題として取り扱われていなければ*1、さらに続けて、所作は記憶であるということについて言わねばならないだろう。つまり所作が千年に渡って養われた仕草を使い続けているということについて。―― たとえば、手をあげ、地に口づけすること。これは、何世紀にも渡って編み出され、宗教的な崇拝のしるしとなるようにと考えられた挨拶の儀式からくるものである。そして、ユダヤ人のひれ伏す祈りのかたち、それは、その儀式がいかに熱心な信徒たちによるものかを物語る。―― 祈りの人の仕草に関して、そして、その孤独さにおいてもまた、誰も知らない過去の証言、あるいは、決して名のることはできないが、祈りについて言及してきた兄弟たちの証言を、長い歴史が、ひとつひとつ吟味する。まるで身体が神に向かって、知性は説明することができるのだと言うように、それは、人々に、その記憶はとどめられていないのだと言う。「洞穴、柱、そして《聖霊の神殿》」(1Co.6,19)。これらはつまり人の聖遺物を入れるものでもある。いかに驚くべきことか、教会の奥に座っている貧しい女性の重ねあわされた手、立って祈る司祭の上げられた手、カルメル会修道士のひれ伏す姿、それらが、いかにヒンズー教のそれと、エジプトの、中世の現代のそれと似通っていることか?社会的関係に起源をもつであろうすべての所作は、あるものを、他のものとともに象徴する。あの年を取ったArsene修道士をもう一度取り上げてみると、彼の所作に到達するために必ず昇ってくる太陽は、手から手へと循環し、また、ある神秘的連帯によって、それらの所作と一致するというわけである。


このように、身体による貧しい祈りが、それら所作から、さまざまなことがらから、人間の歴史に沿って立ち上がる。もし私たちがそれをより尊敬すべき祈りの人として信じるなら、その貧しい祈りは、精神よりも長く生き長らえる。隠遁修道士のAntoineは、祈りのなかである日、内省し、不動な態度を悟った。しかしすぐその後、その兄弟が亡くなって、その「いのち」を私たちに言わんとしていることに気づいた。「彼は、死んでしまった身体もまた、その所作をし続けていることによっていつも成就していて、すべての生きているもののために神に祈り続けているということを悟った」*2
Michel de Certeau, La faiblesse de croire, paris, seuil, p.40

*1:Jean Mourouxm « Priere et temps », in Bulletin du cercle saint Jean-Baptiste, n26, decembre 1963

*2:Patrologie latine23,27