日本語


そうだったのか・・・と肯きの連続。


日本語の森を歩いて (講談社現代新書)

日本語の森を歩いて (講談社現代新書)


前書きの「構造主義言語学とも生成文法ともまた認知言語学とも−異なるこの『発話操作理論の言語学』」との説明に思わず買ってしまいましたが、かなり参考になります。感謝!

この言語学の最大の特徴は、人間の言語というものは、人間が話し、語るという行為=出来事(この出来事を「発話」と呼んでいます)を中心にして形成されるさまざまな関係の網だと考えるところにあります。前掲書、p11

あ、いたっ!・・・(中略)
実際、この言表は、われわれの観点では、
(3)?ああ、痛い。(なんだか変ですよね?)
とけっして同じ意味ではありません。
われわれにとっての問題は、どういう文法規則に従って、
(4)?わたしは痛いです。(いよいよ変ですよね?)
という正規の(?)「文」が形成されるかを調べることではなくて、「あっ、いたっ!」という言表が、それを発話した主体を中心としてどんな意味の操作や関係網を発動させているのかを調べることなのです。前掲書、p15


で「第13章、いたっ!」では、疑問が解けたというか、ちょうどこの前、うちの人と料理をしてて、熱い鍋を触って、「Aïe!」っていうの日本語でなんて言うの?って聞かれたばかりで、えー、「アチチー」だよねぇ、で、つまり、「『熱い』って言うんだよ」って訳したりしてヘンだなーと思ったところだったから、

日本語では、この場合も<寒><痛><怖>というような意味の要素が残っています。にもかかわらず、ここには述定関係はありません。関係の個別的な性質は明示されているのに、主語や目的語になる関係項は明示されていません。つまり関係項なしの個別関係だけがあるということなのです。間投詞はまさにそのような性格を持っていますが、述定関係が打ち立てられて、それからそれが省略されているのではなく、それ以前の、まさに前述定関係とでも言うべき関係がここには提示されていると考えられます。それは、主語にあたる関係項がまだない状態での発話とでも言うべきものなのです。前掲書、p185


なんて説明されると、日本語って深いーと思ってしまうのでありました。
「発話者、enonciateur」「言述者、locuteur」の話とかまさに探しておりました。


ネットを検索していると、こんな素晴らしいサイトもあり・・・。
http://www.linguistes.com
構造主義から発話理論への流れとか↓、
http://www.linguistes.com/courants/courants.html
Antoine Culioli氏の説とか紹介されている↓。
http://www.linguistes.com/phrase/enonces.html


Theorie narrativeもこの辺りと深い関係があるのだなと今さらながらに納得。