死から命へと

主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき/広い道を高く通す。見よ、遠くから来る/見よ、人々が北から、西から/また、シニムの地から来る。天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め/その貧しい人々を憐れんでくださった。シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
イザヤ書49章8−15

エスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエス安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
ヨハネによる福音書5章17−30

l'humanisation
人間がもっと人間的になる。
人間がより人間らしくなるように、する。
ここにこそ「人間の語彙」が意味を持ってくるんだよね。
自分から離れることなく、自分の現実を見つめ、
ありのままの自分を愛することが、
できるようになるまで、
絶対にあきらめないで語る。

無痛文明論

無痛文明論

感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

大著「無痛文明論」の後、著者はどんなことを考えていたのだろう。
死から命への欲望が、かぎりなく続く転轍が、
「少女の体になりたい」という願望に触れるとき、
たとえそれを語ったとしても貶められることのない、
このままの自分に到達していたのではないか。
そういうわけで、
子である自由を存分に味わって、
そのままの自分がさらにそのままの人間になれるように。