胸を打ちながら

karpos2005-03-05

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。
ホセア書6章1−6

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書18章9−14

キリスト者たちは孤独を打ち壊す者でなければならぬ(ル・モンドより)。
今日、パリの大司教座に座るあなたは言う。
アンドレ・ヴァン−トロワ大司教トゥールーズからパリへ。
http://catholique-paris.cef.fr/actu/detail.php?c=1&e=514
責任者として、僕(しもべ)として、この世を旅する民を励まし、導く。
前のジャン-マリ・ルスティジェ枢機卿の後、一つの世代交代。
信の生命がこれからどんなふうに伝わっていくのだろう。
・・・
限界だらけの、足りないだらけの、
弱さにうずくまってることに気づくのは、
美しい光を浴びているから。
その光がどこから来るのか。
もしも、それがどこから来るのか知らなくてもいい。
どうしてかわからなくても、それがあるなら。