まだ遠く離れていたのに

あなたの杖をもって/御自分の民を牧してください/あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に/ただひとり守られて住み/遠い昔のように、バシャンとギレアドで/草をはむことができるように。お前がエジプトの地を出たときのように/彼らに驚くべき業をわたしは示す。あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように。
ミカ書7章14−15、18−20

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
ルカによる福音書15章1−3、11−32

放蕩息子の帰還と呼ばれる物語だけど、
これ、憐れみの父親の抱擁と呼んでもいい物語だよね。
ほんとどうしようもないバカ息子(バカ娘)を、この父親の腸(はらわた)が憐れむ。
・・・
この物語のバカ息子(バカ娘)って、結局のところ、自立した生活ができてない。
・・・
財産の前借り。
全部を金に換えてどっかに出てく。
放蕩の限りを尽くして、無駄使い、何もかも使い果たし、破産。
災害、仕事なし、とりあえず居候、だれも食べ物をくれなかった、孤独。
父親のもとで着実に仕事をこなす兄(姉)さんとはえらく違う。
弟(妹)が帰ってきたとき、いちばんに腹を立てたのはこの兄(姉)さんだった。
生活力のなさ。
このバカ息子(バカ娘)のさらなる天然さは、「我に返った」ときの気づき。
真面目に仕事しよう、お金貯めよう、じゃなくて、
お父さんのところに帰ろう、だ。
まったくこれ、わたし。
・・・
子は、我に返る。
まだ遠く離れていたのに、父親は、子を見つけて、走り寄って、首を抱き。
憐れみの伝心。