識別


ローマは一日にしてならず、ならぬ、≪識別≫は一日にしてならず。

・・・というわけで、今日、以下の三つのアプローチを紙に書いて壁に貼ることにした。

今、私がしようとしていることを次の点から観る:

  1. ゆるがせないこと・・・
  2. うっちゃっていいこと・・・
  3. 時々、確認しなくちゃいけないこと・・・

実はこれ自分で考えたわけではなくて、イ会のS神父さんからの受け売りなのだけれど、とてもいいなと思った次第。なのでしっかり活用してみようと思う。
確かに、日々、することは山ほどあって、なんだかんだと言ってやっているうちに日が暮れて、また寝不足とかになってしまって、頭も痛くなったり、からだの調子が悪くなったりもする。問題は、日々、すること、と言っている≪すること≫とは本当に≪すべきこと≫なのか?というところなのだ。そして、≪すべきこと≫とは≪ゆるがせないほど、すべきこと≫なのかそれとも≪うっちゃってもいいけど、してること≫なのか、ということだ。
基本的に日々の生活のこの次元のことが≪はっきり≫していないと、それ以上のことがまったく≪識別≫できなくなる。
そもそも、心身がどうしようもなくて休養が必要だというのに、≪すること≫≪すべきこと≫でくるくる働いてばかりいたら、色んなこと考えたり、創造的に何かアイデアをひらめかせたり、難問奇問に立ち向かったり、できない。そういうときには先に休んだほうがいいし、そうでもしなければ、仕事するどころか余計、心身に支障を来たすことになる。≪すること≫を上記の1,2番からきちんと整理して、3番の本題に行くってことだ。
3番の≪時々、確認しなくちゃいけないこと≫というのは、整理されたすべきことの間にできた時空間のなかで座るという、つまり、≪祈り≫なしにはまったくありえない。祈っていても、1、2番がはっきりしていなければ、3番の祈りにはいけない。
照らされるべきは≪超自然≫の恵みからのみであって、≪自然≫である私や他の世の事象からではない。≪確認する≫という以上に、上からの恩恵によって、わたしが≪確認される≫必要があるのだ。そうすることで、私は私を確かめ、私が歩むべき道を確認することができる。
ロヨラの聖イグナチオは、ちなみに≪休養≫についてこう書いている:

休養というのは、悪でないこと、つまり、よいこととか、またはよくも悪くもない事柄を行って、頭脳をゆっくりとくつろがすことです。
テレサ・ラジャデイ修道女への書簡/1536年9月11日、ヴェネチア

よいこととか、よくも悪くもないことを行うっていうの、素晴らしい!と思う。
はて、私にとって≪よくも悪くもないこと≫ってなんだろな?
しかも、それでもって≪頭脳をゆっくりとくつろがす≫ことだからね。しかしそれでまた≪すること≫が増えちゃうと困ったことになるな。