列福式


ちょうど雨がしとしとの時、幕がおりた。
福者にあげられた殉教者たちの・・・言ってみれば「イコン」だなぁ・・・



11月24日(祝)。188殉教者列福式
今回、運よくというか、実家の家族と共にこの列福式に参加した。本来「参加する理由」のないところだったのに本当に運よく参加できてありがたかった。父のどうしても参加したいという思いと、信者ではない母も一緒に行くという「ある種特殊なシチュエーション」で、私なりに(個人的に)いろいろ考えさせられた式だったと思う。
やはり「雨」に考えさせられた・・・
雨に降られながら数時間耐えるために「思いついた考え」はやはり「殉教者の強さにならう」ということで、当然、雨でイライラしている家族にもそういうことを言い、我慢と忍耐を求めた。
途中、晴れて太陽が輝き始めたこともあり、いや、やはり「天がこの列福式を祝福しないはずはない」などと喜んだりもした。しかし当然、雲行きは悪くなり、風が吹いて冷えてきて、雨も降りはじめる。
この繰り返しのなかで、さっき言った我慢と忍耐があまりにも陳腐で、どうしようもないもののように思えてきた。殉教者の精神にならうとかって、雨の中で我慢しているような話じゃないんだよね・・・
式典ミサは、日本のカトリック教会のミサそのままだった。
背伸びする必要もないし、ありのままでいい。
しかしただ一つだけ、自分の中で腹におちてないものがある。
(たぶん、わたしの参加度低さの問題かもしれない)
殉教者が福者にあげられ、認められ、そのおかげで多くのこと、歴史的にも、信仰の次元においても、学ぶチャンスをいただいた。そのことで、現代社会に生きる自分自身の信仰を問われ、見つめることができ、力をいただいた。
で、一つおちていないものは3万人も集まる意味について。
カトリック人口の一割弱が一堂に会したというのはやはり大きなイベントだった。せっかくこれだけ集まっているのに・・・という感じが残ってしまっている・・・(わたしだけかもしれないが)。スタジアムに集まっても、同じ教区でかたまっていなければならなかったり(安全面を考えてだと思うが)、何かもうちょっと「出会い」の面白さみたいなものも加味されていても良かったのではなかったか、と思うのだけれど・・・
「わたし」の信仰から「わたしたち」の信仰へ、と。
(もちろん説教の中では多く語られていました)
ま、「式」だから・・・ってことかな。



晴れてるとこんな感じ!