マリア

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11554/
「いい映画だった、史実に忠実だった」と友が言うので行ってきた。水曜レディースデー、会場は満員。泣いている人がたくさんいた。音でわかる。わたしも泣けた。泣けてしまうのには理屈はない、何千回聞いた話でも、泣けるものは泣けるのだ。
クリスマスには聖劇というのがあって、教会や教会学校、教会関係の学校の多くでこのイエスの誕生場面の劇をする。受難劇よりもクリスマス劇の方が多いんじゃないかな(たぶん)。私も大学一年生のとき、女子寮の聖劇で「イエス役」をした。本当は天使の羽をつけるガブリエル役がしたかったのだけど、なぜか、体が大きいのが赤ん坊役をするのは面白いということで、そうなってしまった。懐かしいな。
ま、この映画「マリア」も壮大な費用をかけて製作された「クリスマス劇」「聖劇」はたまた「馬小屋」と言ってもやぶさかではない。
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聖書学者によればおそらくこの映画、「史実に忠実」なのではなく「聖書に忠実」ってことになる。
史実じゃない・・・

誕生地はマタイもルカもユダヤベツレヘムとしているが、これは後の原始キリスト教会が、メシア(キリスト)はダビデの子孫だからダビデゆかりのベツレヘムで生まれるはずだという当時のユダヤ教の常識に合わせて作った話で、史実を述べるものではない。むしろ、その他の箇所に頻出する「ナザレのイエス」という呼称が示すように、実際はガリラヤの寒村ナザレの生まれであったと考えられる。その地では、父がヨセフ、母がマリヤで、弟ヤコブ以下の兄弟姉妹のいたことが住民の間につとに知れ渡っていた。『イエスという経験』大貫隆p21−22

差別と排除・・・

きれいな星を飾った馬小屋で、羊たちに囲まれて、といったロマンチックなクリスマス・メッセージではないのですよ。だってヨセフのいいなづけのマリアは人口調査、住民登録のためにヨセフの生まれ故郷ベツレヘムに、つまり実家の村に帰ってきた。実家の村だから、とうぜん本家がそこにあるはずです。本家の家長を通じてローマ総督に、「うちの家系は・・・」という具合に、登録するわけですから。だから本家があるだけではなく、その親戚、一族の家も、その小さなダビデの村にいっぱいあったはずです。なのになぜ、マリアが出産間際であるにもかかわらず、親戚の家のどこにも入れてもらえなったのか。『釜ケ崎と福音』本田哲郎p127−128

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しかし、たとえ史実じゃないとしても、この場面がどれほどの絵画や音楽に表現され、どれほどの劇が繰り返され、像を作ったり、想像したり、約2000年間も続けて「イメージ」し続け、祝い続け、キリスト教国ではなくても「クリスマス」を祝っているこの世界というのは、やはり、救い主の誕生を待ち続け、誕生したことを喜び続けているわけである。
泣けちゃう理由は、単純。
ナザレの少女マリアが信じて疑わない、ひたむきに赤ちゃんを産む。
その少女マリアを支えるヨセフがあまりにもやさしい。