神を信じる

神を経験する、神を信じるということが、いかに「ふつうの行為」であるかを語る師匠。

イエスとその福音

イエスとその福音

神を信じるとは、経験・交わり 
 ヨハネ福音書の最後の晩餐の言葉では、「あなたがたをみなしごにはしておかない」(14・18)と非常に衝撃的な言葉があります。また、「あなたのところに行き、一緒に住む」(14・23)とも。だから、父なる神を信じるとは、実際にこの方とキリストを自分の内にしっかりとお迎えし、交わりを持つということなのです。あなた方は神の神殿である!
 そのように、信仰している者にとって、父が自分の中におられる、自分は一人ぼっちではないということは一つの事実で、信仰の事実なのです。その事実を実際に生きているかどうかという問題なんだと思います。あるいは、自分の意識の方から考えれば、私は神さまを信じていると言った場合に、自分がその神を「アッバ」という言葉で表されるような、まったくすべてを委ねるようなことができるような神さまとのつき合いを持っているか、ということだと思います。
 「神さまを信じる」ということですが、これまでとくに西洋では、非常に理屈っぽかったのです。神が存在するか、証明できるかとかね。いろいろな理屈をこねたのですが、しかしそんなものにはだんだんあまり興味を持たれなくなってきたわけです。神を信じるということは、証明できるかできないかという問題ではない。だから、証明ができたとしてもだれも興味を持たなくなってしまった。今、無関心の人がたくさんいます、ヨーロッパでも。
 しかし、神を信じるということはそんな問題ではないと思うのです。今、本当に神を経験できるかどうかということなんです。それは一歩進めば、ほんとうにそういう交わりが持てているかどうかということなんです。ですから、ヤコブ書2章19節にあるでしょう。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」。神を信じるかどうかということは、認めるか認めないかという問題ではない。だから今の無神論の基本的な問題とは、神存在を頭で認めるのではなくて、自分の生き方の中に、「アッバ」と言えるような父の存在を持っているかということなんです。結局、信用できるのは自分だけだと思って一人ぼっちで生きているか、そうではなくて、父なる神を持っているかという問題だと思うのです。
ファリサイ人と徴税人
 だから、いくら神さまを認めても自分の態度を全然崩していない人間というものは、自分の域に絶対人を入れないですし、神さまを他人としている者は、神を認めない、イエスの神を認めてはいないことになります。・・・pp176−178

信用できるのは自分だけだと思って一人ぼっちで生きているか、そうではなくて、父なる神を持っているか

この対比は非常にシンプルで本質的な「宗教経験」を示していると思う。「父なる神」という言葉にこめられているのは、まったく安心して委ねられる何か、存在である。イエスが神に対して「アッバ(お父ちゃん)」と言ったあの幼子のような信頼の心で、自分をあずけられる何か、存在があるか、ということ。よしよし、それでいいって無条件に肯定してくれる何か、存在が、自分のなかにあるか、ということ。
たぶん、そのような存在があるか?と聞くこと自体、すでに承認・感謝reconnaissanceという動きに入ることになる。宗教者が、その動きに対して目を逸らすことなく見つめ続け、向き合う誰かに対して言い続けるということが求められているのだろう。そして、すべてのこの動きを知る者で、音楽なり、芸術なりで表現しようとする者たちが、この動きの中に入っていくことが求められているのだろう。