沈黙

karpos2007-07-08


昨日のつづき・・・
那田尚史「セルフ・ドキュメンタリーの起源と現在」
山形国際ドキュメンタリー映画祭YIDFF: 刊行物: DocBox: #26
那田尚史氏は、日本のセルフ・ドキュメンタリーがいかに進んでいるかを示し、
次のように締めくくっておられる。

おそらく世界中のアマチュア映像の中で、セルフ・ドキュメンタリーの分野がこれほど特異に発達しているのは日本だけだと思われる。その根底には壮大な物語よりも身辺的な小さな物語を好む日本人の伝統的な感受性というものがあり、私小説におけるプライバシーの暴露や不幸の告白を好む観客が、現在はセルフ・ドキュメンタリーの中にその好奇心を満足させているという構図が見られる。すでにこの分野は日本のアマチュア映像の中で大きなジャンルとなって成立しており、我々はこれからもカメラを持った志賀直哉太宰治葛西善蔵の末裔達を発見していくことになるだろう。

これはわかる。
さらに言えば「日本人の歴史」というものが、
セルフ・ドキュメンタリーのようなを呈することに、
ぴったりと合うんじゃないか?と直感的に思う。
観たり聴いたりしながら自分を撮るという作業はある種、歴史性と関わっている思うが、しかし、
いわゆる歴史を書き綴っていくような作業とはまったく違う。
書き綴るのとは違う、観たり聴いたりする歴史性。
セルフ・ドキュメンタリーすっごく興味が出てきた。
これがまたドキュメンタリーじゃなく、セルフってところが気になる。
◆◆
ところで、沈黙・・・
マックス・ピカート『沈黙の世界』より

沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。沈黙は、現代の効用価値の世界にすこしも適合するところがない。沈黙はただ存在しているだけである。それ以外の目的は何も持っていないように思われる。だから、人々はそれを搾取することが出来ないのである。

映画の場合、観たり、聴いたりなのだ。
そこでは空白とか、沈黙というのは多大な効果を及ぼす。
闇のなかで光によってできる影を見ており、
フィルムという時間の流れでカタカタと鳴る音は消去できない。
功利主義で無用とされる空白や沈黙は映画では逆転となる。

それでも、沈黙からは、他の効用価値あらゆるものからよりも一層大きな治癒力と援助の力とが放射しているのである。この無目的な無益なものが、あまりにも目的追求的なもののかたわらに立ち現れる。それは突如として、あまりにも目的追求的なものの流れを切断するのである。

『垂乳女(たらちめ)』での出産シーンはまったくの沈黙だった。
それでこの言葉を思い出した。

沈黙のなかには、あの聖なる荒野がある。何故といって、荒野は神の造営そのままのものだからである。

もうそうなると、空白や沈黙でしか「誕生」は表現できないだろう。
『垂乳女(たらちめ)』に旧約聖書を感じるのはそういうところからもくる。