恨(はん)

karpos2007-07-05



防衛相辞任/怒りを理解できているか
http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000435851.shtml
写真http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070702-00000022-jijp-soci.view-000

 これまでも、米国のイラク戦争在日米軍再編に絡んで問題視される発言を繰り返してきた。ただし、今回の発言は被爆者の苦しみを理解せず、踏みにじっただけでなく、戦後日本の平和政策を覆すような内容だったことで、質が違う。
 「誤解された」「真意が伝わっていない」という弁明を聞くかぎり、そのことがわかっているように思えない。

いろいろ読んでて「怒り」という言葉が出てきたのはここだけだったのでコピペ。
ただこの文面だと、怒りが国民の怒りなのか、被爆者の怒りなのかはよくわからない。
「苦しみを理解せず」とあるので、被爆者の「怒り」ととることもできるかなとちょっと思った。
さらに、「しかたない」の発言に対する被爆者の怒りなのか、
被爆者がずっと持ち続けている「原爆に対する根本的な怒り」なのか、それもよくわからない。
とにかく・・・
わたしが感じていることは、
「原爆に対する根本的な怒り」があれば「しかたない」とは言えないだろうということだ。
それは、おそらく、「怒り」というか「恨み」にも近い。
ただ「恨み」と言ってしまうとなにか情念のようなものが入ってくるので、
ここでは「恨(はん)」としてみたい。
民衆神学の根本概念である「恨」を参考にしてみる。
言い過ぎるかもしれないけど、「恨」の感情が腸(はらわた)の奥底にあるかどうかで、
こういう発言が出てくるか出てこないかが分かれるんじゃないかと、ふと思った。
自分が、その哀しみの歴史に直接関わっているか関わってないかにかかわらず、
どこかしらに「恨」の感情が残っているならそれは綿綿と伝達される。
どこかしら、というのは血による親兄弟でもいいし、教師などの伝達系統でも、土地に浸み込んだものでもいい。
韓国の神父さんから民衆の神学での「恨」の概念を説明されたとき、それは呪いのような消極的なものではなく、
もっと心や共感(コンパッション)に近い、いわゆる腸(はらわた)がよじれる(スプラングニゾマイ)、
あの感じなんだということだった。
なるほどな、韓国の熱さはそこから来るのかと思った。
民衆はその「恨」により一致して、過去を想い起こし語り継ぐ。
このあたりはイスラエルにも共通するし、初代教会の迫害時にあったキリスト者とも言える。
わたしには「原爆、ゆるすまじ」「二度と、ゆるすまじ」が骨の髄まで浸み込んでおり、それを剥がすことはできない。
それでもって、
根本的なところで「恨」があるというのは、もう運命としか言いようのないものを感じるわけだ。
民衆(みんじゅん)神学における「恨」は自分の「恨」にとどまらない。
他者の「恨」にも響く。
とにかく・・・
それにしても・・・
瓢箪から駒、ではないが、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070704-00000151-jij-pol

小池百合子防衛相は4日夜、就任後初めて防衛省内で記者会見し、広島、長崎への原爆投下(中略)、「歴史的評価は人類にとって挑戦、人道的には認められないことは明らかだ」と述べ、米国の投下判断を厳しく批判した。

こういう展開になってきたので祈りながら見ていきたい。