天地創造

karpos2007-07-03


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こういう映画を観ていると非常に複雑な思いになる。
聖書の物語をできるだけ史実に忠実に再現し、立派な映画俳優を起用し、
素晴らしい音楽をつけ、壮大なドラマを繰り広げる。
聖書の話を紹介するために、この映画を観てもらうというとき、
無意識的に自分が、ある基準で「これはだめ、これはよし」と選んでいることに気づく。
映画「天地創造」で、父アブラハムがイサクを捧げるというシーンは、
やはりどうしても「よし」という気持ちになれなかった。
その理由を考えてみると、
アブラハム、100歳を越えている彼の表情が非人間的であること、
神の命令は絶対だからという意向でいよいよイサクを火をつけた茨にのせ屠ろうとするところ、
そしてなにより、どこからか聞こえてくる「声」である。
この三つ、どれを取っても聖書の物語からいって否定できない。
しかしそれが映像化されたとき、どういうことになってしまうか、生理的に受けつけない。
それはつまり「解釈」の問題なのだろう。
わたしが聖書を読んで解釈するなら、こういう映像にはならないというある種の反抗なのだろう。
絵画ももしかすると同じかもしれない。
聖書の物語が絵画になっているとき、どうしようもなく同調することがある。
まさにこれだ!という感覚。
映像でそれを探すのは相当むずかしいと思う。
絵はまだ止まってるだけ他人が入り込める余地が残ってる。
カラバッジョの右上の絵はアブラハムとイサクの物語でわたしには納得できる、かなり好き。