昭和ひとけた

父の日にあたり、遅ればせながら感謝。
日・月曜日、パソに向かうことできず書けなかったゴメン。
なにせ前回の母の日にこの場で感謝を述べたものだから同じように言わないとね。

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さて、昭和ひとけたの父のことを思い出した、新聞の記事。

朝日新聞朝刊07年6月14日 『安倍改憲は「自主」なのか−米に隷属する現状 直視を』 岸田秀

 さきの日米戦争において、一方の陣営は守備隊が玉砕し、航空隊は特攻し、末期には竹槍で原爆に立ち向かおうとし、他方の陣営は非戦闘員ばかりの都市を次々と空爆し、最後には二発も原爆を使用し、現在からは両陣営とも狂気に陥っていたとしか見えないが、米のことはいざ知らず、日本側の「狂気」にはそれなりの理由があった。
 敗れれば日本が米に隷属する属国になることが火を見るより明らかで、それだけは断じて避けたいと必死にあがいていたのである。しかし、日本は徹底抗戦をあきらめて降伏を選んだ。恐れた通り米に隷属する属国になった。

岸田秀さんは1933年、昭和ひとけた生まれだ。このような出だしをサラリと言えるのはやっぱりひとけたの人という感じがする。
とくに「竹槍で原爆に立ち向かう」なんて言うのはまさしく父が昔よく言っていたことだ。本気であの原爆の中でも「竹槍ででも・・・と思った」少年がいると人に話すと、誰もが恐れおののく。こんなことを言うのは昭和ひとけたとしか思えない。
そして驚くほどあっさりと、そうはいっても属国になってしまったと言いのける。激しい両極端さ・・・

記事の中で岸田さんは「外国を崇拝する卑屈な『外的自己』」と「外国を憎悪し軽蔑する誇大妄想的な『内的自己』」の「分裂」という氏の日本分析を思い出させる。これはけっこう有名で私も昔読んだ記憶がある。

キーワードは「自己欺瞞」。

日本の戦後処理について、まるで(傷ついた)「内的自己」はなかったかのように日米の友好関係を結んだ在り方は「自己欺瞞」だったと言い、また別の意味で、今回の安倍政権はさらに新たな「自己欺瞞」を表明しようとしていると言う。

今の憲法は押しつけ憲法で、第9条は二度と日本が米に戦争を仕掛けないようにするためであったから、この条項を改訂し自主憲法を制定するというのが、安倍首相の意見である。

安倍政権は、先の戦争以降抑圧され傷つけられた日本の「内的自己」を「第9条改憲」という形で回復しようとしている。しかしそれは一見「内的自己の立場を尊重し、日本国民の自尊心を回復する」ようであるが、結局、米の許容範囲内でしか改憲ができないのだから、新たな自主憲法として第9条を改憲しても、これまで以上の「押しつけ憲法」になってしまうのは明らか。たとえば自衛隊員が米が勝手に決めた戦争のどこかに送られる消耗品にもなりかねない。

先の自己欺瞞を直視しないまま、さらに自己欺瞞を上塗りしてしまうことになる、と。

そういうわけで岸田さんは次の結論に至る。

 現状では、日本は米の属国として隷属的に生きてゆくほかはない。この現状を認識した上で、そのなかで最善の国益を考えるべきである。この現状だって永久不変ではないから、いつかは変わる。その日を待って辛抱強く臥薪嘗胆の日々を送るしかない。
 やむを得ない隷属的な政策を「対等」とか「自主」とかの言葉でごまかして、日本の隷属的立場から目を逸らすべきではない。
 そのような自己欺瞞こそが、そこから抜け出すためにはどうすべきかという道筋を見えなくさせ、必要以上に隷属的になっているのにその自覚を麻痺させ、結果的には屈辱的隷属を永続させるのである。

それもこれも、日本が米の属国なのだからと・・・

 内的自己は抑圧されただけであって、消滅したわけではない。日本のあちこちに米軍の基地があり、日本がその占領下にあること、日本の外交政策はほとんど米に決定されていること、経済や金融や犯罪捜査の面でも米の意向に逆らえないこと、要するに、日本が米に隷属する属国であることは否定のしようのない事実であり、抑圧された内的自己の自尊心はつねに傷つき疼いている。

岸田さんのおっしゃる「内的自己は抑圧されただけであって、消滅したわけではない」というのはまったく考えさせられる。

だいたい、外国を憎悪したり、軽蔑する「内的自己」が日本の中に、日本人の中に、あるいはまた自分の中に「ある」と認めること自体、けっこう大変である。そして、戦後生まれのわたしなんかは、「そんなのないよ」って言い切りたいし、確信を持ちたい。しかしだ、じゃあ「ぜんぜんないか」と言われれば、まったく自信がなくなる。

これは実に昭和ひとけたの親を持つ子の「内的自己」なのではないかと思ってしまう。

戦後の日米友好関係を成り立たせるため、平和国家のため、経済発展のために、「先の戦争?あれは軍国主義者の狂気によるものだったから」などという了解の仕方は非常に有益だった。内的自己を抑圧した若い大人は戦後の子どもに言い聞かせた。「あれはね、狂っていたんだから仕方ない」。しかし実はけっして口にはのぼらない「日本人としてのプライドを捨てちゃならん」という、いったいどこから来るものかわからない自己の声で、大人は子どもに聞こえぬように言い聞かせていたのではないのだろうか。「日本人というものはね・・・」。

この記事を読んだ後、今までにない感覚にみまわれた。
ふと気づいたら大きな戦艦に包囲されているという感覚。どこにも逃げようがない。
日本はすでに属国なんだから、そうやって生きていくしかないのだよ。
みんなもうすでにわかってて、わたし一人がわかっていなかったような、そんな感覚がおそってきた。
そうなのか・・・

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